赤坂氷川山車保存会 設立20周年記念
赤坂氷川山車保存会 設立20周年記念
赤坂氷川山車保存会は、本年をもちまして設立20周年の節目を迎えることとなりました。これもひとえに、地域の皆様、そしてご支援を賜る企業・団体の皆様のお力添えの賜物であり、心より厚く御礼申し上げます。
平成18年の設立以来、私たちは失われた祭礼文化の復興を目指し、山車本体8本・人形9体・飾り幕の修復と復元を一つひとつ積み重ねてまいりました。宮神輿との5本同時巡行が実現するなど、往時の祭礼の姿へと少しずつ近づくことができたのは、皆様の変わらぬご支援があってこそです。
「カタチ」の復興に力を注いだこの20年を経て、次に私たちが目指すのは、祭りを支え、祭りに集う「人の輪」をさらに広げていくことです。先達より受け継いだこの祭礼を、次の10年、20年へと繋いでまいります。今後とも変わらぬご支援を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
令和8年5月 赤坂氷川山車保存会事務局
赤坂氷川山車保存会 理事長 出野 泰正

赤坂氷川山車保存会が設立20周年という大きな節目を迎えられましたことは、ひとえにご関係の皆様方の多大なる御支援と御協力の賜物であり、厚く御礼申し上げます。
かつて江戸の祭礼を彩った山車も、戦災等によりその多くが失われました。当会は、残された貴重な山車人形や部材を修復・復元し、再びこの街に江戸の活気を取り戻したいという一念で、平成18年に産声を上げました。 当初は手探りの状態でしたが、翌平成19年に約80年ぶりとなる巡行を実現させて以来、一歩ずつ着実に修復を重ね、現在では数多くの山車が赤坂の街を堂々と練り歩くまでに至りました。
この20年を振り返れば、礒野初代理事長、石渡二代目理事長の情熱を受け継ぎ、赤坂氷川神社、地元町会、地元商店街、地元企業の皆様、そして学生の若い力など大勢の皆様の深い絆に支えられた歳月でありました。令和4年度には港区有形民俗文化財の指定を受けるなど、私たちが守り続けてきた伝統が公に認められたことは、大きな励みとなっております。
祭りは単なる行事ではなく、街の歴史を繋ぎ、人と人を結びつける血脈です。私たちはこの20周年を通過点とし、先達から預かった江戸の粋と伝統の灯を絶やすことなく、より一層の情熱を持って次世代へと継承していく所存です。今後とも変わらぬ御指導、御鞭撻を賜りますようお願い申し上げ、設立20周年のご挨拶とさせていただきます。
港区長 清家 愛

赤坂氷川山車保存会が設立20周年を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます。出野泰正理事長をはじめ、保存会の皆様が赤坂氷川山車の修復・復元を通じて、地域の伝統文化の継承と活性化に長年ご尽力されてきたことに、深く敬意を表します。
赤坂氷川山車は、江戸型山車として歴史的価値が高く、都内23区において当時の姿のまま現存し巡行する例は極めて希少であります。
区は、全国的に貴重な赤坂氷川山車を地域の象徴として捉え、地域コミュニティの再生と活力向上を図るため、平成19年から平成27年までの間、山車人形9体、山車本体5本、飾り幕2枚の修復・復元事業に助成を行ってまいりました。これらの取り組みを通じ、地域の皆様をはじめ、赤坂の地を愛する多くの皆様と力を合わせ、地域文化の継承に寄与できましたことは、区としても大きな誇りであります。
令和4年度には、赤坂氷川祭の山車人形が江戸・東京における山車人形制作の実態を示す重要な資料として、港区有形民俗文化財に指定されました。現在、復元された山車は、国際医療福祉大学に1本、赤坂氷川神社境内に2本が常設展示され、地域住民や来訪された方々がその歴史と魅力に触れる場となっております。
保存会の活動により、次世代の参画促進を通じた伝統文化の意義および高度な技術の継承が実現し、このことが更なる文化的発展へつながると期待しています。結びに、皆様のご健勝と保存会の一層のご発展を心より祈念し、お祝いの言葉といたします。
大妻女子大学教授 是澤 博昭
赤坂氷川の山車人形の魅力とは何か。一言で言えば、「江戸時代に、江戸の職人が作った、江戸の香り」が一七六年たった今、港区赤坂で味わえる奇跡、ということでしょうか。
天下祭に次ぐ格式のある祭礼が赤坂氷川祭です。そのシンボルとして活躍した江戸から昭和初期までの人形が、長い年月を経て蘇り、令和の世に活用されています。170年以上も前から伝わる江戸風の人形および山車附属品を活かして、神社の宮神輿にともない山車が巡行するのは、東京23区内では赤坂氷川祭だけです。
関東大震災、戦災で壊滅したはずの人形が、八代将軍に所縁のある神社に残っていたこと、さらにそれが平成に入り地域の努力で復活し、江戸型山車が高層ビルの立ち並ぶ東京の中心部を練り歩く姿は、まさに往時の天下祭を偲ばせるものです。これこそ伝統の復活という言葉がふさわしいでしょう。他では決して味わえない贅沢な祭礼です。
赤坂氷川神社には、今でも江戸・東京の伝統の祭礼の息吹が立ち上っています。この貴重な文化遺産を、保存会だけでなく、われわれ研究者と行政が一体となって、次の世代につたえる必要性を改めて感じます。人形研究者の立場から、山車人形の調査がはじまった頃の思い出や、その魅力などを振り返ります。
山車復活の基礎を固め、人形の学術的位置づけや保存、後世につたえる文化財としての方向性なども視野に入れた道筋を整えることに貢献されたのが、亡くなった禰宜の惠川義浩さんです。
彼との出会いは、荒川区ふるさと文化館で山車人形に関する講演をした時でした。もう22年も前のことです。講演後、赤坂に古い人形があると挨拶され、名刺を交換したのがはじまりです。その日は大雪の恐れがあり、終了後は早々に散会する慌しさで、(失礼ながら)義浩さんの話を半信半疑で聞いたことを思い出します。
江戸の天下祭の影響をうけた山車人形が、(祭礼用具ではなく)有形文化財として本格的に認識されはじめたのは、平成15年『川越氷川祭の山車行事調査報告書』(川越市教育委員会)からです。祭礼に使われる山車人形は、雛人形や御所人形など鑑賞を主とする人形とは目的が異なります。学術調査としての先例も乏しく、まだ山車人形の調査方法も手さぐりの状態でした。まして東京の中心に古い人形など残っているのか、という疑いもあり、拝見する約束はしたものの、あまり気がのらなかったのも事実です。
ご存じのように江戸時代の赤坂氷川神社の祭礼は、いわゆる「天下祭」という通称がある山王祭、神田祭に次ぐ大祭で、隔年6月15日に行われました。基本的には宮神輿に赤坂21ケ町の産子町がだす、山車13本と附祭が巡行していました。しかし江戸の祭礼は、幕府の崩壊とともに終わりをつげます。それは近世を支えた基本的な社会の在り方が変わり、山車が町内の顔であることをやめてしまったからです。
明治以降、江戸の祭礼に用いられた山車は使用されなくなり、関東一円に流出し、それを免れたものも関東大震災や太平洋戦争による空襲で、大半が失われました。東京23区内で完全な形を残している山車人形は少なく、明治と共に衰退する江戸の祭礼は、山車人形とともに歴史の闇に消えてしまったといえます。
当時私達はその面影を求めて、舟運で栄えた地域(川越市・栃木市・佐原市など)を中心に、かつての江戸の祭礼の面影をもとめていました。従って、調査のために六本木1丁目の駅を降りた時は、「新しいものだが興味深い」など、義浩さんを傷つけない説明の仕方を用意していました。
ところが旧社務所に残っていた人形は、幕末期から昭和初期までの貴重な作例でした。まるで近代の山車人形の一覧をみる心地でした。江戸の人形師は、数センチの根付から数十センチの雛人形、数メートルもする山車人形まで、客の求めに応じて作りこなす人々です。分業化が進んだ今日では考えられないような、職人としてのさまざまな顔を持っていました。
なかでも江戸の名工原舟月父子(2・3代)の隙間を埋める幻の人形師、松雲斎徳山の頭2体が保存されていることには驚きました。他にも原資料こそ失われていますが、文献上の貴重な記録がのこる玉山の人形、東京が神輿中心の祭礼へと変わり、作例が少なくなるなかで、大正から昭和初期まで赤坂では山車人形を新調していることもわかりました。江戸の伝統の祭礼が山車人形という「カタチ」で残っていたのです。これらは「祭礼行事によりつくりだされた事物で文化的価値を有するもの」、まさに有形文化財という評価が適しています。
今日の祭りの中心は神輿です。宮神輿や多くの町神輿が氏子たちに担がれていますが、町神輿は明治40年代にはじまり、大正時代に増加し、それが東京の各所でみられる現在の祭礼の元になります。江戸時代は、基本的に各町内単位で山車を製作し、それぞれ町のシンボル的な人形や飾りをのせ曳きだしました。
しかし近代化がすすむと、江戸期には制度化されていた祭礼や五節句などの生活習俗も改廃されます。さらに地方からの新住民の流入もあり、必ずしも江戸的な価値観にとらわれない東京市民も多くなります。それは祭礼の在り方にも影響を及ぼしました。
町内を代表するシンボルとして山車人形を支える意識も次第に薄れます。そして電線や家屋の密集などにより、山車も曳かれることが少なくなります。人形だけが神酒所に飾られることが普通になり、山車人形は本来の役割を失い、やがてその姿を消します。
21一世紀の赤坂に人形および山車附属品が保存されていた背景には、赤坂氷川神社の氏子地域ならでは事情が幸いしていたのです。
通常山車人形は各町内が製作し、維持・管理し、祭礼の運用にあたります。従って各町内に保存される例が多いのですが、赤坂では神社の境内の山車倉に、山車人形をはじめ祭礼に必要な諸道具を、各町内が一括して保管していました。関係者の話によれば、遅くとも戦前には氷川神社の境内に各町会の倉庫があったといいます。
昭和のご大典で「恵比寿」が新調されてから、山車の巡行はなかったようです。従って戦災を免れた神社に昭和初期の状態のまま山車倉に納められ、知る人ぞ知る存在として眠っていたのです。
赤坂氷川神社の境内で江戸時代からの伝統を受け継ぐ13組中9組の人形をはじめ飾り幕や高欄、額、小道具類などの附属品が一括して現存することの稀少性は高く、まさに奇跡といっても決して言い過ぎではありません。
これらは近代化の中で衰退する江戸の祭礼の変化を見渡すことができる文化財であり、江戸東京のモノづくりの実態や変遷を考察する上でも貴重な資料です。さらに地域社会の活性化と住人をつなぐシンボルともいえるものです。
失われた江戸・東京文化を発信し、川越・栃木など関東周辺の江戸型祭礼行事をむすぶ形ある絆としても、赤坂氷川祭の山車人形は貴重な役割を果たしています。
是澤 博昭(これさわ ひろあき)
博士(学術)。東洋大学大学院文学研究科修士課程修了。
文化史・日本人形史・子ども史を専門とし、近世・近代の生活文化史を主な研究テーマとする。
日本の人形文化や近代子ども観の変遷に関する研究のほか、港区・川越市・栃木市・石岡市等の関東近郊の山車人形の調査に従事。