赤坂氷川山車の紹介

赤坂氷川山車の紹介

祭が人々の生活の中で最大のイベントであった時代、町の象徴といえる存在が山車を飾る人形でした。古くは、祭のたびに焼かれたり川に流されたりしましたが、次第に保存それ繰り返し使われるようになりました。
日本神話に登場する神々、伝説的な英雄を題材にしたものから、より観衆の注目を集めるために当時人気のあった演劇を題材にした人形まで登場しました。 この地域には奇跡的に震災・戦災を免れた9体の山車人形が遺されております。
これらの人形の多くが、長く曳き出されることがなかったため、頭をはじめ唇の色にいたるまでほぼ製作当時の状態を保っております。人形の完成度も高く、江戸から東京の山車人形の製作事情・構造を考える上で、極めて貴重な資料でもあります。

猩々 しょうじょう

旧町会名 表傳馬町一丁目
現町会名 赤坂表一二町会
製作者 不明
製作年 不明
飾り幕(上段) 勝海舟の文字を刺繍(縫秀作)
飾り幕(下段) 貝文様

明治の歌舞伎の人気俳優九代目市川團十郎が、「猩々」の能を豪華な装束をまとって舞っている姿です。
猩々とは、中国の空想上の動物で、酒を好み海中に住むといわれます。人間に幸福をもたらす動物であることから、祝言の趣をもった能の演目として演奏されます。酒に酔って気分がよくなった姿を表すためか、面や装束は赤色を中心に配色されています。
上段の飾り幕には、赤坂にゆかりのある勝海舟が書いた文字が刺繍されています。正面が「勝会」、側面が「氷川」「神社」、裏面が「明治二十年六月五日表一氏子中」となっており、刺繍は縫秀の作と伝えられております。
下段の飾り幕は現存しておりませんでしたが、「猩々の山車(月岡芳年作・赤坂氷川神社所蔵)」の額絵をもとに令和5年に復元新調しました。

赤坂氷川山車の紹介 猩々

猿 さる

旧町会名 表傳馬町二丁目
現町会名 赤坂表一二町会
製作者 山本鉄之(修復)
製作年 明治44年(1911年)
飾り幕(上段) 龍と波
飾り幕(下段) 左三つ巴

山王権現(日枝神社)・神田明神(神田神社)の天下祭(御用祭)では、山車行列の先頭は天下泰平を象徴する「鶏」、続いて神様のお使いとされる「猿」が巡行していた。赤坂氷川祭においてもこれにならい、猿の山車が行列の前方を巡行していたようです。
小振りながら、赤坂氷川山車の中では唯一、上段に六角形の高欄を持つ珍しい形をした山車となります。
人形の箱書きには弘化2年(1845年)と記されているものの、保有町会の伝聞によると猿の人形を祭礼に出すと“荒れる祭”となることが続いたため、明治33年(1900年)に赤坂氷川神社へ奉納したようであるが、残念ながらこの人形は現存しておりません。
現在に伝わる人形は、明治44年(1911年)に山本鉄之が修復をしたものと推測されています。保存状態も大変良く江戸の人形の面影を伝える貴重な作例であり、山車人形の歴史を考える上でも興味深い資料の一つです。
令和2年(2020年)には、高欄の一部など残存部分を活かし、山車本体の復元新調を行いました。

赤坂氷川山車の紹介 猿

翁 おきな

旧町会名 裏傳馬町一丁目
現町会名 元赤坂伝馬町町会
製作者 松雲斎(古川)徳山
製作年 弘化 2 年(1845 年)
飾り幕(上段) 舞鶴
飾り幕(下段) 雲と松

能楽の中でも神聖かつ特別な翁(白式尉・はくじきじょう)の面を下げ、烏帽子と狩衣、指貫を着けた能楽師の姿を表しています。山車を彩る飾り幕は、上段は「舞鶴」で下段は「雲と松」の吉祥文様です。
能の演目は、その内容によって「神(しん)・男(なん)・女(にょ)・狂(きょう)・鬼(き)」の5つに分類されますが、「翁」はこのどこにも属しません。すべての演目中の別格とされ、演劇ではなく神事の色を強く帯びたものであり、演者はその身に神を宿し天下泰平・国土安穏を願うといわれます。
作者の徳山は、五月人形や山車人形づくりの名工として、天保の終わりから弘化・嘉永にかけて活躍しました。名工として名高い原舟月(二代)を継ぐとうたわれた人形師ですが現存作例は少なく、赤坂氷川山車『源頼義』と共に、歴史的資料としても価値の高い人形です。

赤坂氷川山車の紹介 翁

源頼義 みなもとのよりよし

旧町会名 裏傳馬町二丁目
現町会名 元赤坂伝馬町町会
製作者 松雲斎(古川)徳山
製作年 弘化 3 年(1846 年)
飾り幕(上段) 岩清水
飾り幕(中段) 笹竜胆(ささりんどう・源氏の家紋)
飾り幕(下段) 五色幕

源頼義は八幡太郎義家の父親で、陸奥の安倍氏を討ち、東国に源氏の地歩を固めた武将です。頼義は東国との深い関係があり、また徳川将軍の遠祖だということで、徳川将軍にゆかりある赤坂で人形が飾られるようになったと伝わります。赤坂氷川山車では唯一の武者姿の山車人形で、鎧兜に身を固めて太刀を佩き、強弓をもった凛々しくもきらびやかな姿をしています。
「ある年の六月、士卒みな喉が渇き水を望んでいた時、源頼義は八幡神に念じて弓で岩に穴を開けたところ、たちまち清水が噴出した。石清水八幡の号はこれより始まった」
人形は岩を突くように両手で弓をもっており、上段幕に刺繍された岩からは清水がいきよいよく溢れ出していて、この伝説に基づき製作されたことがわかります。
残存をしていた最上段の高欄と囃子台を活かし、『祭礼山車行列額絵』を元に復元・新調作業を進め、令和3年(2021年)、残存していた最上段の高欄と囃子台を活かし、全国的にも大変珍しい三層型山車の復元新調作業が完了しました。

赤坂氷川山車の紹介 頼義

恵比寿 えびす

旧町会名 田町一二三丁目
現町会名 赤坂見附会
製作者 不明
製作年 昭和3年(1928年)
飾り幕(上段) なし
飾り幕(下段) なし

七福神の中の一神である恵比寿は、幸福をもたらす「商売繁昌」の神様です。
烏帽子をかぶり、狩衣を着た姿で描かれることが多いですが、これは恵比寿信仰が広まった室町時代の身分の高い公家や武士の姿を表しているためです。右手に釣り竿をもち左脇に鯛を抱えた姿の神像が作られることが多く、赤坂氷川山車『恵比寿』も同様の姿で製作をされています。
釣り竿は”釣りして網せず”という教えを表していると考えられており、網で魚を根こそぎ獲るような商売はしてはならない、暴利を貪ってはならないと商人を戒めるものであったようです。
昭和3年(1928年)、昭和天皇のご大典に際して作られたものと推定されています。この地域の山車文化が衰退していた昭和の時代に、新しい山車が製作されたことは大変興味深く、さらなる調査の必要があります。

赤坂氷川山車の紹介 恵比寿

神武天皇 じんむてんのう

旧町会名 田町四五丁目
現町会名 赤坂田町三四五丁目町会
製作者 山本鉄之
製作年 大正4年(1915年)
飾り幕(上段) 鳳凰
飾り幕(下段) 桐紋

神武天皇は日本の初代天皇で、皇室のご祖先となられます。『日本書紀』によると、日向国より「東征」の旅に出られ、陸路海路で近畿へ進み、大和の橿原宮で即位されました。
赤坂氷川山車『神武天皇』は東征の途次、苦戦を強いられた天皇の弓に金鵄(きんし)がとまり、まばゆい光が敵兵の目をくらまし勝利をもたらしたという伝説をもとに製作されています。
飾り幕には「大正四年四月」の文字と、皇室の御紋である桐が刺繍されています。これは、大正天皇御即位を祝して制作されたものと考えられ、奇跡的にほぼ完全な状態で遺されています。
令和元年(2019年)11月9日に皇居外苑にて開催された「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」では、全国から集まった神社・団体とともに盛大な巡行を行い奉祝行事に華を添えました。

赤坂氷川山車の紹介 神武天皇

源頼朝 みなもとのよりとも

旧町会名 一ツ木・魚店・大沢町
現町会名 赤坂一ツ木町会
製作者 不明
製作年 嘉永2年(1849年)
飾り幕(上段) 舞鶴
飾り幕(下段) 雲と波

源頼朝は、鎌倉幕府の初代将軍である。圧倒的な政治的手腕により源氏・東国御家人をひとつにまとめ上げ、「平家滅亡」を成し遂げた。容姿端麗・頭脳明晰・武術にも大変すぐれていたと伝えられています。
赤坂氷川山車『源頼朝』は、江戸時代に舟月・玉山と並び称された、雛人形の名工桃柳軒玉山こと、人形師孫平により製作されました。祭礼に間に合うように、前年の11月に注文を出し、山車本体の高欄とともに53両2分で製作されたという詳細な記録も残っています。
作者と来歴が分かる貴重な資料でありましたが、昭和60年代に新調されることとなり、現代風の人形に生まれ変わりました。
金箔捺しの立烏帽子、狩衣に指貫を着け、虎髭等の趣向を凝らした作りで、鎌倉幕府を開いたあとの姿を描いたものと思われます。高欄と額は嘉永2年(1849年)当初、飾り幕は明治期のものが現存しており、三層構造の山車であった可能性が高いと考えられています。

赤坂氷川山車の紹介 頼朝

翁二人立 おきなににんだち

旧町会名 新町二三町会
現町会名 赤坂新二町会
製作者 不明
製作年 明治43年(1910年)
飾り幕(上段) 飛鶴
飾り幕(下段) 雲と波

人形座に2体の人形を配置した、大変特異な山車です。「翁」の能を演ずる翁と千歳(神事の主催者である翁の前に、露払いとして颯爽と舞う若者の役)の人形であり、文久元年(1861年)には「翁千年」(先代の山車人形)、明治44年(1911年)には「二人立」、昭和61(1986年)には「翁二人立」と名称を変えながら保管されてきました。
翁人形は豪華な能装束をまとい尉面をもっており、千歳人形は能面をもたずに脇に控えています。能の翁には演劇性はなく、天下泰平・国土安全・五穀豊穣を祈願する儀式としての舞のみの「式三番(しきさんば)」で、現在でも祝賀などの能の最初に演じられます。
赤坂氷川山車『翁二人立』は、文久3年(1863年)に制作されたと伝わっていますがその典拠は不明です。その後、明治43年(1910年)に大規模な修理が行われたことが箱書きからわかっています。飾り幕の上段は鶴、下段は亀が刺繍されており、上下あわせてめでたい鶴亀の幕となっています。

赤坂氷川山車の紹介 翁二人立

日本武尊 やまとたけるのみこと

旧町会名 新町四五町会
現町会名 赤坂新町五丁目町会
製作者 不明
製作年 嘉永 6 年(1859 年)
飾り幕(上段) 雲龍
飾り幕(下段) 牡丹と獅子

日本武尊は記紀神話に登場する伝説的な英雄です。第12代景行天皇の子として生まれ幼名を小碓命(おうすのみこと)といいます。
年少より武勇に優れ、16歳の時に景行天皇より九州の豪族「熊襲一族」の討伐を命じられました。その際、首長である熊襲建(くまそたける)を油断させるため、女装姿で宴に臨み、一太刀で討取ったと伝えられます。
赤坂氷川山車「日本武尊」は、髪を下ろし緋袴を着けた女装姿で、今まさに太刀を抜いて向かおうとする緊迫した場面を表しています。気迫のこもった表情で、左下方を見る視線が特徴的です。
令和4年(2022年)、江戸時代から残存する部材を活かしながら「三層型」の本体を復元新調しました。

赤坂氷川山車の紹介 日本武尊